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「自分史」を書くな「自分伝記」を書け


「自分史」と「自分伝記」の違い

自己分析のノウハウを書いた記事の中で、「自分史」を勧めるものが良くあります。それはそれでよいのですが、私は学生に「自分史は書くな、伝記を書け」と言っています。結局は同じなのかもしてませんが、「自分史」と「自分伝記」私の解釈の差を本日はお話ししたいと思います。

例えば、織田信長の桶狭間の戦いを信長の歴史的な解釈で書くと次のようになります。

1560年(永禄3)5月19日、尾張桶狭間(愛知県豊明市)における今川義元と織田信長の戦い。当時、駿河・遠江を本拠としつつ、三河を領国化した今川義元は、1552年から1559年に、三河支配の徹底と領国の拡大を意図し尾張に侵入、沓掛、鳴海、品野、大高の諸城を拠点として、海岸沿いに勢力を築きつつあったが、1562年5月、駿・遠・三の2万5000余の兵力を動員し、大規模な侵入を図った。織田信長はこれに対し、丹下、中島、善照寺、鷲津、丸根に築砦し防戦に備えたが、今川軍は鷲津・丸根砦を落とし、同月19日、本陣を桶狭間のうちの田楽狭間に移した。一方信長は19日払暁、「敦盛」を舞い、わずかの兵を率いて清洲を出発、進軍中に先の2砦の陥落を知り、善照寺砦で兵力を結集させ(約3000という)、相原方面へ向かい太子ヶ根を経て、今川軍に察知されることなく田楽狭間の今川本陣を急襲。義元は壮烈な戦死を遂げ、今川軍は敗走した。(日本大百科全書(ニッポニカ) 久保田昌希)

「信長史」は信長が行った事実を正確に客観的に伝えることを目的としており「いつ、どこで、だれが、なにをした」という部分に重きをおいて述べられたものです。

次にどこかで信長の伝記を読んだ私の創作になりますが「信長伝記」です。

永禄5年5月、上洛を果たすため、信長が治める尾張に2万5000余りの軍勢で攻め入る今川義元。3000人しか動かせる兵を持たない信長は、喉元に匕首を突きつけられた状態。家臣たちが「もはや、これまで」と口々に嘆く城内。そのような中、信長は大いびきで寝ているさまであった。大うつけと呼ばれた信長に仕えた家臣たちにとっても、信長のこの行為は奇異なもので「見限るものも出るのではないか」という雰囲気が城内に漂っていた。主君に絶望を感じ、家臣たちが右往左往し城内は大混乱であった。しかし、今川が織田の丸根砦、鷲津砦に攻め陥落したとの報告を受けると、すくと立ち上がり、出陣の号令を声高らかに叫んだ。「人間50年、下天のうちをくらぶれば夢幻のごとくなり、一度生を受け滅せぬもののあるべきか」と敦盛を舞った後、先陣を切って出陣した。光を背に駆け抜けるその姿は、まさに真の軍神の降臨。家臣たちは、その信長の姿に身震いした。「主君信長には勝つ策略がある」そこにいた全員が確信した瞬間であった。(私の創作ですので細かいことは勘弁してください...)

周りの状況、本人の行動を語り、信長の覚悟や気持ち、考え方を示唆するものが伝記です。「信長伝記」は、その時の信長の考え方や思いが大切で「なぜ」に重きをおいて述べられるものとなります。信長の決死の覚悟、尾張を守りたいという思い、その戦略など、信長の人となりが出たものでなければよい伝記とは言えません。

新卒採用に強い「自分伝記」

さて、新卒の就職活動で企業は何をもってその人を判断するかと言えば、事柄よりも思いや考え方です。例えば、「インターカレッジで優勝」という事柄はその競技のプロになるのでなければ、どうでもよいことです。それよりも、そこまでの努力やその努力を継続できた気持ち・考え方などが大切です。新卒採用がポテンシャル採用だからこそ、そのようなことになるわけです。その自身のポテンシャルを見つけるための「自己分析」では「自分史」ではなく「自分伝記」が重要であり、その後の就職活動を後押しするものとなりやすいのです。

また、「自分伝記」を書く中で「ドラマ」を描けとも言います。自分が成長した出来事であれば、そこに「ドラマ」があるはずです。その時の気持ちを思い出し「なぜ一皮むけたのか」「どんな思いがあったのか」「どんな行為があったのか」「どんな言葉があったのか」をしっかりと伝記の中に入れていくと、どんな人生も輝いて見えるものです。

是非、「自分伝記」を書いてみてください。「ドラマ」を教えてください。学生が書いた自分伝記で、涙もろい私は何度泣いたことか...面接官を泣かせる勢いで(でも、絶対に盛らないで)作ってみてください。

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